opinion

明日、製薬企業の面接があるのでいろいろ考えていたら、ガンの告知をすべきか、すべきではないかという問題について考え始めてしまい、結局まだ志望動機が何もまとまらずじまいです。でもせっかく考えたのにこのまま忘れてしまうのは嫌なので、推敲してまとめてみました。

告知をすべきかすべきでないか

 私が中学3年生の秋、祖父はガンの告知を受けることなく食道ガンの手術を受け、その後一度も目覚めることなく亡くなりました。両親は祖父が手術をしても助からないだろうと医師から告げられ、私たち兄弟にもそのことを話していました。死が迫っていることを知らない(もしかしたら感じていたかもしれないけれど、それは確信ではなかったはず)祖父は麻酔で眠る直前も穏やかに言葉を交わしていました。
 両親は迫りくる死の恐怖を祖父に与えることなく、祖父を逝かせることができました。私たち家族にとってそれは幸せなことでした。絶望、あきらめを抱いた祖父を見て、祖母が苦しむことも、両親が悩むこともなかったからです。
 私は死ぬ覚悟をして死ぬことが幸せだとは決して思いません。できるならば、何の感覚も働かないままに、死の恐怖に怯える前に、一瞬のうちにこの命を奪ってほしいと思います。ただそれは、「どうせ死ぬなら」という前提つきです。いざ死ぬとなれば、世界中のあらゆる場所に自分の痕跡を残しておきたいし、お金の許す限りおいしいものを食べて、孫に贅沢をさせて、幸せを感じたいと思います。
 きっと死ぬ前にやっておきたいことがある、という人は多いでしょう。死期の迫った患者さんへの告知は、やり残したことはないかを考え、残りの人生を充実させるためのものだと私は思っています。私にとって気がかりなのは、祖父に「やり残したことはないか」を考える時間すら与えることができなかった点です。もし告知をしなかったことに異論を唱えるとすれば、唯一挙げられる点は祖父から死の準備をする機会を奪ったことでしょう。
 告知をすべきか否か、ということについて明確な結論はないと思います。強いて言うなれば、死を迎える個人個人にそれを選ぶ権利と、義務があるということです。なぜ義務と言うのか、それは死の告知をすべきか、すべきでないかという問題で苦しむのが患者の家族だからです。もし死が迫ったときに患者が告知をしてほしいと思っているのか、してほしくないと思っているのかを家族が知っていれば、その苦しみを少しでも減らすことができるでしょう。死が迫ったときに、自分にとって大事なことが、死の恐怖から逃れることなのか、やりたいことをすることなのか、それを常日頃から考え、家族に伝えることが、いま少しでもできるこの問題の解決策なのではないかと思います。